今日くらいは落ち込みたい。明日くらいはいいもの書きたい。

 

創作大賞だめだった。

いやまぁ、これのために書き下ろした訳でもないし、本当に通れるとも思ってなかった、なんてぇのは言い訳に過ぎなくて、なんかこう、私って本当になににも愛されてないんだよねぇみたいなことを考えた。

思えば

親には愛されてない。

男もだめだった。

学問も、好きだったけどダメ。つんつるてん。

じゃあって始めた創作活動もこのザマ。

 

ほんとに私って何にも愛されてないなぁ。

 

久々に結構落ち込んだ。

 

そもそも、売れたいとか、商業やりたいとか、そんなことは思ってないはずだった。

その思いは結構変わってなくて、資本主義的なあれこれよりも、どこかにいる私みたいな孤独な人に届かないかなぁって思ってた。

自分のスタイルだと胸を張って言える、顔が見えるやり取りが好きだった。

文フリでお隣さんに「顔広いんですねぇ」って言われた時に気がついたけど、私は、「また会えて嬉しい!元気だった?私はねぇ…」って気持ちで本を書いているつもりだった。

それなのに、なんか途中からおかしくなった。どこぞの大賞に出してみて、そしたら出版社から電話かかってきて、『大賞はとれなかったけど、うちで出してみませんか?予算はとれるだけとるけど、まぁウン十万円くらいは自費かな』とか言われて、なにくそと思って創作大賞出してみたけど、つんつるてん。

 

ほんとに愛されてねぇなぁ。

どいつもこいつもバカにしてんなぁ。

 

でも才能なんていらないなんてのは嘘。

本当はいろんな人に読まれたい。

でもお金のやり取りする自信がない。

全然。

全然自信がない。

こんなのどこに届くんだよ、届かないなら意味ないよこんなの。

そんなこと思いながら毎日パソコン叩いてる。

 

それなのにやめられない。

私はそれらに愛されてないとしても、言葉を、文章を愛しているから。

くやしい。いっつもそう。私だけが好き。

 

別にね、別に、愛してくれるから好きとか、そんなことを言葉にまで言いたくないんですよ。もう疲れたから。

私が好き。それだけでいい。

なのに悔しくて仕方ない。私だけが好きなことが。

 

なにかを好きでいるのは苦しい。

いつもそう。

 

私だけが好き。

今夜も寂しい。

いつか大丈夫になれるのかな。

 

まだ全然大丈夫じゃない気がする。

 

それでも多分、書き続けるんだろうけどさ。

 

とりあえずお風呂入って薬飲んで寝るけど。

 

 

 

わかってる。

私の文章は、大賞を取るためでもない、商業的に成功するためでもない、ただ孤独な夜を過ごす私みたいな人のためにあるってわかってる。

 

でも今日くらいはちょっとしっかり落ち込んだりしたい。

 

明日はいいものが書けたらいいな。

明日こそどこかの誰かに届いたらいいな。

 

 

 

売買春は罪だから、私はきっとずっと罪人。

 

 

性風俗を、半年に一度くらい利用する。

理由としては、「疲れるから」。

性風俗を利用するのが疲れるからではなくて、日常生活に疲れるから。そして、男性との性行為に疲れるからだ。

私はシス女性(心も身体も生まれつきの女性)である。

つい最近まで、恋愛対象も性的対象も男性のストレート女性だと思い込んでいた。

まぁこれは正しい言い方ではなくて、「本当はパンセクシャルなのだけれど、この世の中で真っ当な人として生きていくには男性と番になった方が絶対都合がいいから」という理由で男性をメインターゲットに番を探していた。

お天道様の下で手を繋いだりキスをしたり、堂々と歩くには、結局男女という縛りから逃げるのは億劫だった。

そんなことを言いつつ、性風俗を利用する時は決まって女性を指名した。いわゆるレズ風俗というやつだ。

インターネットをしていると、時々「性風俗を利用する奴はキチガイ」「性依存でしかない、治療して表に出てくるな」「人身売買を行う犯罪者だ」という意見が目に入ることがある。

 

どれも正解だな、と私は思う。

 

私はキチガイで性依存で犯罪者だな〜と思う。

 

別に反論しようとも思わない。だって事実だし。ただ、悲しいな〜とは思う。被害者ヅラすんなって話ではあるが。

私が利用する性風俗は、タチ女性派遣専門風俗で、簡単に言えば女王様が来てくれるサービスだ。もうかれこれ27歳の時から利用しているから、4年くらいになるのだろうか?虚しいことである。

 

男性と番になりたかったのか?と言われると、どうなんだろう、と今更ながら思うことが増えた。

だって、男性と一緒にいる時の私って、いつも楽しくなさそうな女だし、病むし、セックス以外で愛情が測れない割にセックスでこころがいつでも消耗している。

馬鹿馬鹿しい。

その点、風俗を利用している時の私は全てから解放されている。

「こうあるべき」「ああするべき」から解き放たれて、身体を痛めつけられている時間は、何物にも変え難い。

私は多分根っからのマゾというわけではないのだけれど、例えば鞭で身体を打たれた後に「頑張ってえらいねぇ」と身体を撫でられる瞬間とか、蝋燭の熱で身体の境目が解らなくなる瞬間とか、そういう瞬間に、「あぁ自分はここにいたんだ」と思う。そう思う瞬間が、私にはどうしても必要だと思う。

 

性風俗を理由する人間はキチガイだと言い捨てられる人たちはある意味ハッピーなのかな?と思うことがある。

だって、私はお金を払わないとそうやって(性的に)「自分がここにいる」と思える瞬間がないのだから。その人達はきっと、どこかで真っ当な形で欲望を満たしているのかなぁ。それとも、それがなくとも生きていけるのかなぁ。羨ましいなぁ。わからないけど。

 

性風俗を利用する私を罪人だと蔑みたいなら蔑めばいい。愚かな性依存だと言いたいなら言えばいい。と、強く言い切れるほど私は強くないので、仕方ないけど「私って罪人かぁ」と思いながら生活をしていくしかない。

 

このサービスが正式に違法なものになったら、もしくは、私が定期的に使えないくらい困窮したり、国が、生活がそれどころではなくなったら、と思うと、どうしたらいいのかな〜とぼんやり考える。

 

考えたとて、罪人は罪人だし、どうにもならないのかもしれないなぁ。

 

 

こんな夜中に思い出す。

 

 

夜中に思い出す人がいる。

大抵は昔付き合っていた人たち。

 

最近とても精神的に調子が良くて、幸せに過ごしている。

でもそうやって過ごしていると、ふと、過去に私が傷つけてきた人たち、傷つけられてきた人たちのことを思い出す。

 

もっとこうしていたらよかったなぁとか、

あんなこと言わなければよかったなぁとか、

あんなこと言われる筋合いなかったよなぁとか、

思い出すことは色々なんだけど、

でもどれも、「あの時の私にはあれが限界だったけど、それでももっと、もっと優しく出来たはずだったのでは?」に帰結する。

 

もちろんそんなことはない。

バタフライエフェクトなんてないし

あの時の私にはあれが最善で且つ限界だった。

 

だから今更なにを言うでもないし、するでもないんだけど。

それでも思い出すものは思い出すし、それで「あーなんか、どうにか出来たらよかったなぁ」とも思う。

 

最初の恋人についてだったら

「あんまりお前、私を舐めるなよ」と言ってやればよかった。

 

髪の長いあの子に対してだったら

最後に「人里に降りてくんな」なんて暴言吐かなきゃよかった。

 

遠距離の独身詐欺野郎に関してだったら

「別れた理由を私のせいにすんな」って叫べばよかった。

 

なんか、そういうことを思う。

 

精神的にこんなに落ち着いていても、こんなことを思うのだから、よっぽど心残りなのか、はたまた心に余裕が出来たからそう思うのか。

 

わからないけど、とにかく夜中にそんなことを思う機会が増えた。

 

別にそれで泣いたり喚いたりしないんだけど、でも。

 

それなりに幸せな行末を祈りつつ、私みたいなやつに出逢った不幸をざまぁみろと笑ったりする。自虐とかじゃなく、ね。

 

夜中に思い出して、その人たちの輪郭をなぞった日を思い出したりして、そうやって多分私は生きていくんだろうけど、それが案外寂しくなくって、結構楽しかったりする。

 

 

もっとはやくこんな私になれていたら、あんなに傷つけ合わずに済んだかなぁ。とか言いながら。

 

ながい夜がそろそろ終わる。

 

 

『同じ夢をみる』

最近、呼吸がし易い。

恋人が出来たわけじゃない。

親と和解したわけじゃない。

転職したわけじゃない。

生活が激変したわけじゃない。

 

でも最近、なんだか生活が愛おしい。

 

 

 

先日、友達3人と私とで、寂れた郊外の公園に行った。

 

その公園には川が流れていて、「川縁で石磨きをしたい」という、誰ともない願望にうってつけだったからだ。

 

友達3人とは、2024年から定期的に集まっている仲だ。

元々は4人と私の全5人グループだったが、1人はグループを抜けてしまって、今は4人。

インターネットで出会った友達。みんな優しくて、私はみんなと会うのがいつも楽しみ。

 

その日は、オリジン弁当でお昼ご飯を買って、百円ショップで買い物をして、アイスを食べ、公園の芝生でお弁当を食べ、石を磨いて、私は早々に石磨きに飽きてぼんやりしたりして、隣り合わせたネパール国籍?のグループさんに何故かBBQを分けてもらったりした。

 

川で石磨きをした後に、デニーズでデザートを食べながら「今度キャンプしよう」って話をした。キャンプで炭臭くなったらそのまま温泉に行ってあかすりもしてもらっちゃおうなんて言いあったりした。

でもさ、キャンプにスキンケア用品持っていくの面倒だね。

1人がまとめて持っていく?

じゃあみんなでキャラの模様のパック買ってみようよ。そんで集合写真撮ろう。

いいね、どこで売ってるのかな?ドンキ?

せっかくならドンキまで歩いていく?

山手線、歩きで周ってドンキ目指しちゃう?

やっちゃうか!

 

デニーズを出て何軒かの薬局でキャラパックを探しながら、そんなことを話した。

(実際、後日山手線を半周歩いたのは別の話。)

 

帰り道、ローカルな不動産屋を見かけて、

「ちょっと表に出てる物件見ていこうよ」ってふざけて笑っていた時、

その物件の中に、面白いものを見つけた。

 

『6LDK 駅から徒歩10分 駐車場完備 家賃10万円』

 

「家賃10万円で6LDK⁉」

「みんなで住めるじゃん!」

「1部屋客間で、1部屋リビング兼図書室出来るよ⁉」

「しかも4人だから1人2.5万円!」

 

初夏の夜だった。

半袖だと少し冷えるような。

 

この瞬間、4人が同じ夢をみた気がした。

気がしただけで、私の気のせいかもしれない。

でも、そう思えたことが幸福だなぁと思った。

 

多分、あの物件を実際に借りる未来はちょっと遠い。

みんなのそれぞれの現状やバックグラウンドを考えると難しいことだと思う。

でも、そんなことはどうでもよかった。

あの瞬間、友達4人で、叶うことがないかもしれない夢をみて、

4人でニコニコと時間を共有したこと。

 

そのことが全部で、そのことだけが尊いなと思った。

 

 

私は結構、精神的に弱くて、

恋人がいないと精神的に参ってしまうタイプの依存症人間で

毎週訪問看護さんがやってくる程度には病人だし

薬の量は別に減ってないし

カウンセリングの回数も減ってないし

 

でも、その夢をみた瞬間から、

私にもちゃんとかえる場所があったんだなぁと思うことができるようになって、

呼吸が大分し易くなった。

 

大事な人達と、同じ夢をみれる。

その夢が叶わなくても、笑って明日を迎えられる。

 

そのことの尊さに気が付けたということ。

 

 

後日決行したキャンプ。楽しかった。

 

変なやつになりたい、普通のやつになりたい。

 

また恋愛失敗した。

相変わらず上手く出来ない。

もう何敗目かは忘れた。数えても不毛だから。

 

今回はマッチングアプリで知り合った6歳年下の子だった。

マッチして1分で速攻メッセージがくるような、勢いのある子だった。

変な子だったし、普通の子だった。

 

マッチしてしばらくしてLINEを交換した。

毎日電話がかかってくるようになった。

別に話すことはなくて、動画を見たり、その子がしているゲームの音を聞いたり、時々弾き語りを(しかも深夜2時に)聴かせてきたりした。

そんなに何回も会ったわけじゃないくせに、結婚前提で付き合っていきたいとか、友達に紹介してほしいとか、そういうことを平気で口にする子だった。あとから、元カノに「あなたとの将来が考えられない」と言われて別れたというのを教えられて、あーだから"将来"に必死なんだな、と思った。

私越しに元カノとかと喋る、失礼な子だなと思った。

だから、好きとか言われても全然うまく対応できなかった。

 

それに、その子は一年近く病気でニートだったので、社会との繋がりが薄いだけで、どうせ社会と接点が出来たらあっという間に私なんかに興味なくなるのがわかっていた。

 

そのくせ、あんまり楽しそうに「好き」と言ってくるので、私も悪いやつだから無下にもせず、かといって応えることもせず、もしかしたら本当に好いてくれる将来があるんじゃないかとか、思って。

 

でも、病気で子どもが産めない私に対して、彼が子どもが欲しそうなそぶりを見せてきたから、近づくのは危険だなと感じた。マッチした時は「子ども、どっちでもいい、なんならいらない」って言ってたのにな。姪っ子ちゃんという大型アプデのおかげで心変わりしたらしい。まぁでもそうだ、普通の人は、普通の子は、子どもとか欲しくなるんだろうな。だから付き合うならもう少しちゃんと考えて、って伝えてた。私には、他の女の子みたいな普通のこと、させてあげられないから。

 

そのくせデートもしたし、友達にも会わせたし、一回だけセックスもした。そこでも「好き」と言われた。

でもやっぱり踏み込むのは怖くて、置き手紙を残してホテルを先に出た。進むなら、ちゃんと考えてください、って書いた。

 

そのあとしばらくして、彼が就職した。社会とのつながりが出来た。

そんで、一週間。

「8年ぶりに好きな人が出来た」

電話越しに告げられた。会社の人らしい。相手は変な人らしい。

どうやら私のことは恋愛としては好きじゃなかったらしいです。本当最後まで失礼な子だ。

普通のことしたがってたくせに、変な子と恋愛するんだね。まぁ好きにしてください。もう本当。

 

「これっきり?」

電話口でその子が言うので、当たり前だろ、と告げて電話を切って、不快に感じたことを羅列したLINEをして、おわり。

 

普通の人になろうとしたら、変な人に取って代わられた。普通じゃいられない人だから今までうまくいかなかったのに。

 

私ってどうしたらいいんですか?

普通でもいられない。変でもいられない。

全部中途半端。いつも。いつまでも。

 

少し前に「変なやつ辞めたい」みたいなタイトルの記事がバズっていた。私からしたら、なにを贅沢なことを言っておられるやら、である。

 

変なやつになりきれたら、おもしれぇ女でいられたら、私だってどうにか生きていけたのかもしれないのに。

そうじゃなければ、

普通のやつになりきれてたら、子ども産めるって素直に考えられてたら、どうにかなったかもしれないのに。

 

ないものねだりな人生を考えながら、また今日も多めの安定剤に頼る。

もう結構、生きるのに疲れてきた。

 

人を愛せないし、人に愛されない。

 

この前のカウンセリングでも、そんなことで泣いたばっかりだった。

もう10年になる。人と愛し愛されたい、って素直に認められるようになってから、そしてそれを叶えられないと知ってから。

毎月のカウンセリングで、毎月同じ話題で泣いている。

 

「さみしい」

 

そう言って泣くのは疲れた。

 

マッチングアプリは消した。

もういやになったから。

 

私って本当に、どこにもいけない。無力。

あの時あの瞬間に死んでおけたらみたいなことばっかり考える。

 

それでも、死ぬことも出来ない。

私は中途半端だから。

 

中途半端な人生。ばかみたい。

 

変な人になれたらよかった。

普通の人になれたらよかった。

 

どっちも叶わない。

叶わないなりに、生きる他ないのだけれど。

 

 

 

 

ねぇ私ってどうしたらよかったんですか?

 

 

 

 

表現せずにはいられない

 

今年、2本の映画に脳天を貫かれた。

 

1本目は『落下の王国』。

あらすじは今更私が述べる必要はない。

 

2本目は『Ryuichi Sakamoto: Diaries』

こちらも、今更私がぐだぐだと述べるつもりはない。

 

私にとってこの映画たちは、間違いなく「表現すること」がいかに素晴らしく、そして狂った行為であることを考えさせてくれた映画だった。

 

ロイも坂本さんも、あれだけ苦しく悲しい状況にいながら、「表現している瞬間だけは、その苦しみから解放されている」ように私は見えた。

 

それは救いでもあり、しかし表現を常としない者から見たらただの夢想だ。

そこまでして何を残す?なんのために?と言われても、当の本人達からしたら「そんなことは関係ない、私が、ただ表現したいから表現するんだ」「これは私のものだ」とでもいうようなものなんだ、これは。

 

私は普段エッセイを書く。

 

それは別に、誰かのためでもなく、まして社会や世界のためなんかじゃない。

 

私が、私のために、表現することをやめられないのだ。

 

10年前、今でもお世話になっている人に言われた言葉がある。

 

『君の傷は深すぎて、劇を生きることでしか癒せないんだろうね。』

 

その通りだと思う。

 

私は、エッセイを書く、その書いた文章の中でしか生きられないのだと思う。

 

ばかばかしい、と思う人もいると思う。

金や時間や気力を使って、文字の中を彷徨い歩くことのなにがいいのか、と。

 

でも、私は知っている。

 

私は、私たちは、それでも表現することを辞められない。

 

ある人は音楽かもしれない、ある人はダンスかもしれない、絵かもしれない、文字かもしれない、なんでもいい。私たちにとってはそれはツールでしかない。しかし、実のところツール以上の意味がある。

 

表現しないと生きられない人達がいる。

 

表現することで癒され、呼吸を許される、そんな水底の魚みたいな人達がいる。

 

そして、私はこの2本の映画を観て、感じた。

 

私は1人じゃない。

 

仄暗い水底でもがきながら表現している、時々ふと目を逸らす。

そうすると、隣に同じ様に、孤独に踠く表現者を見つける。

その表現者はこちらなんて見もしないかもしれない。

存在に気がつかないかもしれない。

それでも。

ただそのことだけで、世界と繋がった気になって、私はまた安心して狂った様に踠くことが出来る。

 

表現することでしか呼吸できない人間がいる。

 

少なくとも私はそうで、同じと言ったらおかしいかもしれないけれど、それはロイで、アレクサンドリアで、坂本さんで、そしてもしかしたらあなたかもしれない。

 

狂ったようにしか生きられないけれど、それでも私は、表現することをやめられない。

表現せずにはいられないのだ。

 

 

あの本の話

 

Amazonで頼んだ本が届いた。

 

間宮改衣さんの『ここはすべての夜明けまえ』という本だ。

今年読んだ本の中でダントツにいい本だった、と断言できる。

あらすじや感想など、語りたいことは多いけれど、それは一旦置いておいて。

 

今年の初めから半ばまで付き合っていた遠距離の男のところにいくまでの新幹線の中で読んだんだった。

まだ暑くなりきらない気温の中、私は新幹線に乗り込んで、岩みたいに重い荷物の中からこの本を取り出して、ぱらぱらとページをめくって。

数ページ読んだだけで虜になった。

この本は、すごい。

そう思って一心不乱に読んだ。

泣きながら泣きながらページをめくって、文字を追って、その度にこころを強く揺れ動かされた。

あっという間に読み終わって、表紙の写真を撮った。インターネットにUPした。

とにかくはやく、彼の元にいきたいなと思った。

この感情を、感動を、はやく伝えたい、と思ったから。

彼に本を渡した。読んで欲しかった。

いや、読まなくてもいいから、この本を抱いて私の話を聞いてほしかった。

 

彼は、「俺、本あんまり読まんのよな」みたいなことを言って、プリンターの下の戸棚の引き出しに本を仕舞ってタバコを吸いに行った。

 

その本はそのまま読まれることなく引き出しの中にいることだろう。

だろう、というのは、友人各位はご存知の通り、私とその男は別れたので、その後の本の行方がわからない、というあれだ。

彼は私が大切にしている本だということを知りながら、私が「他の荷物は捨ててもいいから、あの本だけ、着払いでいいから送ってほしい」と言っても、それを今の今まで無視している。

 

「大事な本やもんね、了解!」

 

とか、口先だけでは威勢のいいことを言っていた人だった。

 

本当に、私にとって大切な本だった。

あの新幹線で彼を想った時間ごと、丸ごと大切な本だった。

たくさん泣いたし、未来で何度も何度も読み返す予定だった。

あの本が捨てられるのはどうしても悲しい。

でも、もうどうしようもない。

悔しくて虚しい。

 

今日、Amazonで買い直したその本が届いた。

ぱらぱらとページを捲ると、やっぱりどうしても涙が出てきてしまう。

それは、この本の美しさがもつ煌めきみたいなもののおかげで、この本を美しいと思える私の心でよかった、と思わせてくれるもののおかげで、同時に、この本の美しさがわからない奴なんて、という逆恨みでもあって。

 

本当は、ちゃんと返して欲しかった。

私が胸に抱いていたあの本を粗末に扱わないで欲しかった。

 

どうにも届かないまま、クリスマスがくる、年末がくる。

 

あの本は、あのまま引き出しの中で埃をかぶって眠っているのだろうか。

そのことを思うと、どうにも情けなくてまた泣けてくる。

どうか、せめてあの本が、私にとって大切なあの本が、粗末に扱われていませんように、とか意味ないことを考えながら、私は新しく手元に届いた本の表紙を撫でる。

 

他の人から見たらとってもくだらないかもだけれど、そのくらい私にとって大切なものだったから。